「自分の事は自分が一番よくわかっている」
という言葉を言う人はよくいます。ですがそれは本当でしょうか?意外に自分の言動は客観視できないものです。
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合気道の稽古では、必ずペアを組んで稽古をします。そうすると今まで自分では習得できいると思った事が、実は上手く習得できていない事が、相手の反応によってよくわかります。25年武道をやってきた私でも、相手によっては上手くかからなかったりすることもあります。また生徒さんの身体の大きさや筋肉量や柔軟性などの身体的特徴によって、今までやってきたやり方では技がかけにくい事もあり、その人なりの技のかけ方を見出してあげる必要もあります。
私達の稽古では、柔らかいパイプカバーを使用しての剣の打ち合いという練習をしますが、いかに相手を打つ事のみが重要でなく、相手が打ってくれた箇所は自分の隙だと教えてくれているのだと杵淵先生より学びました。意外に自分に隙があるのがわかります。つまり、他人によって自分について、より理解する事ができると言う事です。
災害や事故や病気に対しても、「他人事ではない」とは言いつつも、心の中では「自分には起こらないだろう」という気持ちをどこかに持っている人が多いのも事実です。そして何かが起こった時に「まさか。そんな事が自分に起こるなんて思ってもみなかった」と言うのです。
実際は、災害も事故も病気も可能性はいつ何時もあり、元気で飢える事もなく、暖かな場所で眠れ、教育も受けられ、自由に仕事を選べる環境にいる現状こそが奇跡的に幸せなのです。口ではそのような事はわかっていると言っていても、本当に心の奥からその奇跡に感謝しながら生きている人は何人いるのでしょうか?
これも、自分では理解していると思っている事が、実は理解不十分であったという例です。
特に指導者は、全てを習得したと思った時点で、指導者として、リーダーとしての成長は止まります。時代は常に変化し、生徒も個々に異なります。ですから同じ指導法は全ての人に当てはまることはできません。望月稔先生は「技は変化すべき」とおっしゃっていたと杵淵先生から聞きました。また現在は家庭でも和室のある家は少なくなり、ほとんど椅子に座る生活なのだからと立ち技90%座り技10%に稽古を変えられ、膝行もやめられたそうです。ですので、私達の道場では座り技はほとんど行いません。
智誠館の大和心クラスの今月のテーマは「智」の「本質を見極める能力」です。今まで「これで良い」を思っていたものを新たな視点で見つめ直し、今、現実に起こっている事は何か。そして本当に大切なのは何なのかを見極める。そういう能力を私達は武道から学んでいるのだと思います。
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